岩手県初の総理大臣原敬の生家は…?
随分昔…知人から原敬の生家は一時期『菓子屋』をしていたと聞いた事があります。初耳で驚きましたが同時に親近感が湧いてきました。
先週の日曜日、お目当ての和菓子屋さんを訪ねましたが休業日…。ふと、『原敬の家はお菓子屋…』という話を思い出し原敬記念館を訪ねてみました。岩手でもコロナが急増のせいか入館者は僕一人、誰にも気遣うことなくじっくり館内を見学しました。今年は没後100年の企画として『ハラケイ入門・改』の特別展示があり、フランス公使時代の写真など貴重なものが数多く展示されていました。
原敬(はらたかし・はらけい)岩手初の第19代総理大臣。記念館は生家の隣に建てられています。生家は今でも結構な広さですが、敬の海外滞在資金・学費捻出の為に屋敷を切り売りし残った建物が現存しています。記念館には写真でご紹介した貴重な資料が展示されていますが、当然のことながら撮影禁止なので僕が印象に残った事を書きます。曖昧な記憶なので間違いもある事をご容赦ください。
原敬の功績は、大学の増設、国勢調査の実施、職業紹介所の設置、陪審員制度、天然記念物の制定などがあります。鉄道網の拡張も原によるものです。岩手県においては、北上展勝地の開園に際し個人的に資金援助をしました。大正10年に東京駅にて過激派青年(18歳)に刺殺されましたが、自身の命が危険にさらされている事を察知し数通の遺書を残しています。暗殺の企てがあると聞かされても『運を天に任せる』とし、警護を特別強化する事はなかったようです。妻子にあてた遺書には、死去の際、階位勲等の陞叙(しょうじょ)は受けない。死亡通知は親戚に限り、一般には通知せず新聞紙の広告だけにするとし、質素な死亡告知の原文迄示しています。東京では一切葬儀等は行わず、遺骸は盛岡へ送り大慈寺へ埋葬する事、墓石には姓名のみ記載し、戒名も階勲は書くな…等々、華美な事は一切してはならないと記しています。刺殺されたときの服が展示されていました。随分オシャレな服装です。遭難したあと駅長室へ運ばれ。原はワインを一口飲んであの世へ旅立ちましたが死に直面してもワインを口にするとは明治男らしい粋を感じさせます。(刃物は心臓に達しほぼ即死だったという話もあり、ワインを口にしたかは分りません)
☝残った家屋敷です。今の人なら寒くて耐えられない筈…。
僕の原敬認知度レベル…
中学の教科書には触れる程度しか書いていなかったような気がします。高校の登校初日、敬君と言う同級生に担任の先生が『名前の由来は原敬か?』と尋ねたのを覚えています。その後社会になっても暫くは『原敬』と聞いても、岩手初の総理大臣で東京駅で暗殺された…鉄道網を広げた人…。くらいの知識でした。
中学の頃の日本史、明治維新以降に入ってくると学年末が迫り授業も飛ばし気味になり始めます。先生も何とか授業を勧めなければ…という焦りもあったと思いますので、郷土が輩出した偉人の逸話など詳しく触れたくても時間が迫り伝える余裕はなかったと考えます。(先生も大変だ…)
25年後、盛岡に移り住み娘の小学校では『地域の教科書』みたいな感じのものがあり、それを読んで初めて原敬の偉業について知りました。今の子どもたちはなんて素敵な教科書があるのだろう、ゆとり教育で生まれた時間が有意義に使われていると感心しました。
原敬については、wikipediaに詳しく書かれていますが、年表的な時系列は下の『原敬のたどった道』に詳しく書かれています。更に、このページを辿ると人物像と活躍を知ることができます。お金が無くて神学校へ行き洗礼を受けて布教活動をしていたことなど興味深い内容です。初めて上京した当時鉄道は無く、盛岡から仙台港まで徒歩、石巻から品川へ海路にて東京へ…。仙台へたどり着くまで一日43キロ(1日11里くらい歩いている様子)歩いたとしても5~6日かかります。今じゃ盛岡から東京まで2時間30分なのに、長いな~と感じてしまうのは贅沢な事です。
⇩『原敬のたどった道』年表でまとめられています。
⇧鎌倉腰越別荘が移築されています。僅か8畳一間の小さな建物ここでどんな瞑想をしたのでしょうか?
岩手出身の総理大臣の先駆け
原敬のあと、斉藤実(30代)米内光正(37代)鈴木善幸(70代)と3人の総理大臣を輩出しています。他に東条英機は両親が盛岡出身なのでカウントするかしないか意見が分かれるところです。東条英機を入れずとも、4人という数字は驚きです。鈴木善幸さんの後岩手出身の総理大臣は出ていません。大変なお仕事で何をやっても批判されるので同じ岩手県民として可愛そうだから出なくてもいいな~と思う気もします。
原敬は平民宰相と言われます。この意味は 藩閥の専横と旧幕府側についた者に対する差別を身をもって体験し、藩閥側が与えようとする爵位を拒み続け爵位を持たない日本で初めての総理大臣となった事からです。また、19歳の時に分家し独立し士籍を離れ『平民』となっています。敬は原家の次男、8人(実の兄弟は7人)兄妹だったとは驚きです。
記念館の中に注目すべき原敬日記が展示されています。日記は明治8年から暗殺される直前の大正10年までのものです。司法学校入学の前年から45年間日記を書き続けるとは凄い事です。明治から大正迄の日本文化と大正天皇との親交も深く当時知る貴重な記録ともいえます。大正天皇の学習院時代のご学友は南部藩42代当主南部利祥という事も少し関係していたのでしょうか?話は逸れますが、南部利祥が大正天皇へ盛岡の老舗長沢屋さんの黄精飴を御馳走した逸話があります。
原敬日記は出版されていて読んでみたいと興味が沸きますが、アマゾンで8万円の価格…とても手が出ません。
菓子屋に関するものは見つからなかったけど…
原敬記念館の近くには、先人記念館、岩手県立美術館などがあります。共通入館券を購入するとお得な価格で巡る事が出来ます。原敬が残した手紙は比較的現代人でも読みやすく理解しやすいものが多いように感じます。毎日新聞社社長時代の方針として、なるべく読みやすく記事を書いて理解されるように努めなさい…というのがありました。たぶん、原敬自身の文章が読みやすいのはそういう事からだと感じます。
最後に記念館の展示物から生家が菓子屋だったという資料はありませんでした。(見つけられなかったのかも…)記念館の人に聞けば良かったのですが、そのまま家へ帰りました。原敬はどんな盛岡のお菓子(小昼)を食べていたのでしょうか?しょうゆだんごや餅・きりせんしょは食べていたと思いますが…。盛岡にある100年クラスの老舗にはいったのでしょうか?生家は盛岡藩城下へ入る仙北町に近いところ、当時の仙北町は主要街道…お菓子屋さんがたくさんあったと想像します。城下の藩校作人館へ通う道すがら、小腹を満たすために餅菓子などを買って食べたかもしれません。お金に余裕がる暮らしぶりでは無かったので横目で見ながら足早に通り過ぎたかもしれません。菓子屋に関するものはネット検索してもwikipediaの中に『菓子売りなどをして生計を立てていた…』というくらいしか見つかりませんでした。この原家菓子屋説…についてはもう少し時間をかけて掘り下げて行きたいと思ってます。先ずは記念館の人に聞いてみよう。
原敬記念館を見学し、モリモリ妄想を膨らませ見学しました。
妄想で腹(原)一杯です。
ごちそうさまでした!
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